うちのこ

2015年4月からワーキングマザーとして働くハハがお仕事や子育てやそれ以外をつづります

働くということ

「どうせテキトーに働ければいいって思ってるんでしょ?」

過去、とある職場で言われた言葉。

冗談ぽく言われたけど、その言葉にびっくりしてしまい、一瞬だまった挙げ句に「いや~…」と愛想笑いをしてしまった自分がいた。

いま振り返れば結構失礼なことを言われているし怒っても良かった、と思うけど、その時私は怒れなかった。当時、その職場で求められているレベルに自分は達しておらず、能力がない、と思いこんでいたからだ。

 

能力がない私は、なんにも言う資格がない。

 

こうやって文字にするといやいやいやいや!そんなことないよ何いってんの、と言えるけど、思考とは恐ろしいもので、その当時のその職場では私は何かをいう気力を失っていた、と思う。

 

そんなふうに「能力がない」と自分を低く取り扱いがちだったり、子どもを育てていく中で、自分の子どもに対して計算力や読解力、その他●●力が足りていないんじゃないか、身に付けさせた方がいいのかな?と焦ることも増えてきていた。

そんな私に刺さった本が勅使川原真衣さんの『働くということ』。尾石晴さんのVoicyで取り上げられていたことで、読んでみたいと思った。

本文で共感したことは、環境×能力の相性ってめちゃくちゃ大事だよね!!ということ。

その持ち味同士が周りの人の味わいや、要求されている仕事内容とうまく噛み合ったときが活躍であり、優秀と称される状態なのではないでしょうか。

これは私自身にも経験があって、ある職場では「仕事ができる」と言われていたのに別の職場では「できない君」と思われているだろうな~ということがあった。この落差は求められるレベルの高さの違いによるものだ、そのレベルの高さに至っていない自分が悪いから努力しないと、と当時の自分なりに頑張ってはいたように思う。

だけどその時の努力は「自分が悪いから(=求められる能力に至っていないから)の努力」で、適切かといえば全然そんなことはなかった。興味がない分野のテキストは目からすべっていくばかりで、数年経ってその業務から外された時には心からホッとしたことを覚えている。

 

その「持ち味」は本物?

本書では一人の人間に必要とされる能力を全て求めるのではなく、メンバーが発揮しやすい「機能」(「持ち味」とか「癖」とか「傾向」)を持ち寄って組み合わせて、「走る車」をつくっていこう、ということが記載されていて、うちの家庭でもそうしていきたいな、と強く思ったのだけれど。

 

本文中で触れられている個人の「持ち味」や「癖」や「傾向」が、ほんとにその人自身を正直に表しているのかな?という部分は注意深くありたい…と感じた。本当は自分の「持ち味」は別のところにあるのに、頑張ってしまう人ほど「他の誰かが喜びそうな姿」を「自分のなりたい姿」にすり替えていないか?「持ち味」として評価されている部分が、実は本人が無理してがんばってがんばってなんとかやりとげているってことはないか。これはどうやったら見分けられるのだろう…。

 

お母さんとして思うこと

読んでいて改めて、子どもたちの「持ち味」や「癖」「傾向」をとらえて、合う環境へいざなうことをやりたいな、と強く感じた。合わない環境にいって「能力がない私は、なんにも言う資格がない」と子どもたちには言わせたくない。私が環境を選んで用意するのじゃなくて、子どもたちが自分自身で合うところを見つけられるように、そっと背中を押せるようになりたい。

 

自分自身の気持ちを俯瞰しながら、落ち着いて自己のモードを「選ぶ」のだ。

と本文にもあったけど、そのためには自分自身の気持ちをちゃんと「つかめる」ことが大事なんじゃないか。それにはやっぱり自分が好きなこと、ついついやっちゃうこと、得意なことを言語化していけるといいんじゃないかなぁ。書き言葉、話し言葉どっちでも良いけれど。

 

40代になっても、いまだに働くということに対して考えることは終わらない。たぶん、このまま考えつづけていくんだろう。この本を片手に、じたばたやってみよう。